JLPT N1 – Reading Exercise 72

#299

やま風景画ふうけいがは、なかにいくらでもある。日本画にほんがにしろ洋画ようがにしろ、古今東西ここんとうざいあまたの画家がかたちが、その題材だいざいに「やま」をえらんでいる。モチーフとしてのやま意味いみするものはさまざまだろうが、個人的こじんてきにはそれらに興味きょうみかれることはなかった。 なぜか。 一般的いっぱんてき登山者とざんしゃやまながめたときの感慨かんがいは、おおむねかよっている。それは、雄大ゆうだいさ、峻厳しゅんげんさ、あるいはやさしさといったステレオタイプな観点かんてんからやま賛美さんびし、その風景ふうけい自分じぶんこころ展示箱てんじばこおさめて「いいおも」にしてしまう。そして、山岳画さんがくが山岳写真さんがくしゃしん作家さっかたちのおおくもまた、たようなイメージを印画紙いんがしやカンバスなどに再現さいげんして、せま市場しじょうなか再生産さいせいさんしているれいすくなくない。 だが、やまのぼものこころ刻印こくいんされるやま風景ふうけい本来ほんらい限定的げんていてきなものではなく、確定かくていしえない動的どうてき現象げんしょうとして記憶きおくされてもよいのではないだろうか。ものこころなか定着ていちゃくされるやまのイメージは、そしてその表現ひょうげんは、もっと多様たようであるべきだろう。 つねに転変てんぺんかえす「うみ」にたいして、うごかざるものの象徴しょうちょうとして、「やま」がいにされることもある。はたしてほんとうにやまうごかないのか。 (中略ちゅうりゃくいち登山者とざんしゃとしてこうおもう。やまうごいている、と。それは、地殻変動ちかくへんどう火山かざん噴火ふんかなど大規模だいきぼなものだけではない。遠目とおめにはおなじようにえても、かぜかれて砂塵さじんい、山腹さんぷくおお植物しょくぶつたちは陽光ようこうびてしげり、渓流けいりゅうはそのたにふかさを日々ひびふかけずり、刻一刻こくいっこく変化へんかつづけている。そういった微細びさい物理的ぶつりてき変貌へんぼうちいさい生命せいめいたちの死滅しめつ再生さいせい瞬時しゅんじまることのない現場げんばが、「やま」なのである。 都市風景としふうけい近代きんだい以降多様たよう都市論としろん対象たいしょうとなってきたが、本来ほんらい多様性たようせいんでいるはずのやまという場所ばしょ表現ひょうげんするイメージが、なぜこれほどまでに単一的たんいつてきなのか。 それは、やまというつねに転変てんぺんする自然しぜんから、都市部としぶ生活者せいかつしゃ生活せいかつ乖離かいりしてしまったことに、原因げんいんもとめることができるかもしれない。やま変化へんかづくほどやま観測かんそくしていないから、その変化へんかにもづかない。 何十年なんじゅうねんやまらしてきたような画家がかでさえも、その表現ひょうげん先述せんじゅつしたいきることはまれだ。おもうに、そういったもの都市生活者としせいかつしゃとは反対はんたいに、表現ひょうげんへのあこがれがさきち、やま実相じっそう表現ひょうげんしえていないのかもしれない。 (志水しみず哲也てつやへんやまわたし対話たいわ』による)

Vocabulary (70)
Try It Out!
1
個人的にはそれらに興味を惹かれることはなかったとあるが、なぜか。
1. 型にはまった見方で描かれた山の絵が多いから。
2. 一般的な登山者の視点で描かれた山の絵ではないから。
3. 思い出として残すために描かれた山の絵しかないから。
4. 自分の心の中にある風景と似たような山の絵ばかりだから。
2
筆者は山をどのようにとらえているか。
1. 山の変化は小さくても、心に残る感動は大きい。
2. 山は同じように見えても、それぞれの個性がある。
3. 山は一見変わらないようでも、変化しつづけている。
4. 同じ山に登っても、山から受ける印象は毎回異なる。
3
都市生活者と、何十年も山で暮らしてきたような画家について、筆者はどのように述べているか。
1. いずれも山への憧れが強い。
2. いずれも山への興味が失われている。
3. いずれも山の見方が変化してきている。
4. いずれも山のイメージが固定化している。
4
山の風景画について、筆者はどのように考えているか。
1. 山の姿を描くためには、その山の特徴を強調すべきだ。
2. 山を多様に描くためには、画家は個性を発揮すべきだ。
3. 山への思いは皆違うのだから、その表現も自由であるべきだ。
4. 山の姿は単一ではないのだから、その表現も多様であるべきだ。