人の会話というのは、言葉としては案外成り立っていないことが多い。ずっと昔、母親と話をしていてそう痛感したことがある。 たとえばの話。私が母に「このあいだより太ったみたいだけれどどうしたの」と訊く、すると母は「服を買いにいったら大きなサイズの店にいけと言われて腹がたった」と続ける。「甘いものを食べすぎなんじゃないの」と私が言うと、「どこそこの店の大福を買ったらまずくて食べられたものじゃなかった」と母は言う。 このように書き記してみれば、会話としてまったく成り立っていない。双方が双方の思うままを口にしているだけである。 私はこの母とよく口論になった。この「(1)思うまま会話」がどんどん進んでいくと、最後に決まって母は「小説なんか書いてないで結婚したらどうか」という方向に結論づけ、「あなたが太った話がなぜ私の結婚問題に結びつくのか」と(2)私が突っかかり、口論になるわけである。この口論だってもちろん、会話としては成り立っていない。その都度、「母に私の言葉は通じないのだ」と腹立ち紛れに思ったものだった。 しかしひょっとしたら、通じないと決めつけた私は、会話というものは「相手の言うことを耳で聞き、順繰りに理解する」はずだと信じていたのかもしれない。信じているふうに会話が進んでくれないことに、苛立っていたのかもしれない。そういえば、「私の話をちゃんと聞いているのか」と、話の途中で幾度も言ったことを今、思い出した。(3)あれは、「耳で聞いたことを順繰りに理解しているのか」と、自分の信じるところを訴えていたんだなあ。 言葉というものは使う人によって、温度も色合いも違う。もしこれが統一されていれば、順序だてて理性的に会話をせずとも、誤解や勘違いやすれ違いはまったくなくなるのではないか。(4)映画や小説のなかで人々が交わす言葉は、たいていの場合、温度も色合いも統一されている。だからものごとは決まった時間、決まったペ-ジ数のなかで、理性的に展開され着地する。しかし(____5____)で、同じ温度、同じ色合い、無個性の言葉でしか会話できないとしたら、と考えると、なにやら殺伐としたものを感じてしまう。あくまで想像だが、戦時下などの有事のときは、ぎりぎりまで言葉から個性がそぎ落とされたのではなかろうか。 その人しか持ち得ない言葉があり、その人からしか受け取れない言葉というものがある。誤解をしたりすれ違ったりしつつ、それをまた言葉で訂正していく、ということも、案外人の持つゆたかさのひとつなのかもしれない。そう考えると、成立しなかったように思えた母との会話も、私たちにしかあり得ない関係のひとつだったと思え、そのことにちょうっと安心する。 (角田光代「成立しない会話」「脳あるヒト心あるヒト」産経新聞2006年1月16日付朝刊による)