建築の設計をやっていると様々な職人に出会う。大小を問わずどの現場でも一人や二人、主役を張れる人がいる。そうした人に出会うのが、現場に通う楽しみのひとつだ。長い時間、図面にばかり接していると、現実を離れて思考が一人歩きすることがよくある。そんな時、かれらからもらう情報がかけがえのないものであることが分かる。我々が作り出す図面は、線で描かれた抽象的な記号に過ぎない。かれらは物に触っている。経験則によって裏付けられた、物に近い、深くて確かな情報を持っている。
図面は人間の頭の中だけで作り出されたものだ。それを現実の建物に移し替えるには、木や鉄やコン{クリート}といった、物から手によって直接に得られる情報が不可欠だ。頭で生み出されたものは、思いこみや錯誤によって間違うことが多いからだ。
今はコンピューターと情報通信の時代だ。それにともなって、手を動かす機会がどんどん少なくなってきている。建築の設計でもCAD(コンピューター利用設計)化の勢いはすさまじい。しかし、その図面は、設計の全体を把握しにくい。きれい過ぎて、何であれ、すべてうまくいっているように見えてしまう。手を経ずに、頭の中だけで作業が完結してしまっているからだろう。
トレーシングペーパーに鉛筆で苦労をして描かれた旧来の図面は、そこに描く人の感情が入っている。うまくいっていないところは消しゴムで消し、描き直して修正していく。技術的に問題のあるところ、デザイン的にうまくいっていないところほど、線はにじみ、トレーシングペーパーは人の手の脂で汚れてくる。何回も描き直した個所は、しまいには擦り切れて穴が開いてしまうこともある。
描いた当人の自信がなければ、鉛筆の線にもその迷いを見て取ることもできる。慣れてくると、図面上の線から、描いた人の経験的なレベルや人柄さえ分かるようになる。手書きの図面には、すてがたい様々な種類の情報が塗り込められている。均質な図面の向こう側に人の姿が見えにくい分、CADでは大きなリスクを見落とす可能性もある。
手から遠いコンピューターの出現によって、リスクの所在をかぎ取ることが、旧来の経験側では難しくなってきている。これは設計に限ったことではないだろう。今や情報通信とコンピューターはあらゆる分野に浸透し、社会全体を変えつつある。頭から生み出されたものが暴走している。リスクの所在が、より巨大で、見えにくくなった。どこかでそれを、生身の身体を持つ人間の側に引き戻す必要がある。手から得られる情報は、効率は悪いが、現実の世界をまさぐって得られるものだ。その人の身体だけにとどまる固有に情報といってもよい。忘れられつつある手の行き場を考えるべきだろう。
(内藤廣『建築のはじまりに向かって』による
そうした人に出会うのが、現場に通う楽しみのひとつだとあるが、なぜか。
1.
職人から得る情報で自分のやり方の正しさが確かめられるから
2.
職人たちの経験に基づいた信頼できる情報が得られるから
3.
様々な職人たちから建築設計の多様性が学べるから
4.
経験豊かな職人たちの仕事ぶりが見られるから
鉛筆で描かれた図面について、筆者はどのように述べているか。
1.
設計の過程や描いた人に関する情報が得られる。
2.
経験を積んで設計に自信のある人にしか描けない。
3.
細部は分かりにくいが、全体は把握しやすい。
4.
情報を読み取りにくいが、描いた人の感情がこもっている。
筆者は、コンピューターが社会にどのような影響を与えたと述べているか。
1.
多くの情報の中から必要な情報を選び出しにくくなった。
2.
リスクの高い様々な種類の情報が氾濫するようになった。
3.
これまでに得られた経験則が社会で必要とされなくなった。
4.
どこにどのようなリスクが潜んでいるか把握しにくくなった。
1.
コンピューター化によるリスクを経験則によって回避すべきだ。
2.
コンピューター化による効率重視の風潮を改めるべきだ。
3.
手によってなされる仕事の伝統を守っていくべきだ。
4.
手によってなされる仕事の価値を再認識すべきだ。