娘むすめのねがい

昔むかし、摂津せっつ国こく能勢のせ(のせ)一帯いったいの山林さんりんは天領てんりょう地ち(江戸えど幕府ばくふの直轄ちょっかつ領りょう)となっており、その麓ふもとの村むらに道どう越えつ(どうえつ)という医者いしゃが娘むすめと二ふ人たりで暮くらしていた。道みち越えつは村むらでは名医めいいとして知しられ、能勢のせの山やまやま々に入はいっては薬草やくそうを採とるのが日課にっかであった。ところがある時とき、天領てんりょうの杉山すぎやまの杉すぎの木きを盗ぬすみ取とる者ものが現あらわれた。杉山すぎやまを預あずかる役人やくにんは何なんとか盗人ぬすびとを捕とらえようと見張みはり番ばんを増ふやしたが杉すぎの木きは毎日まいにち盗ぬすまれていき、苛立いらだった役人やくにんは偶然ぐうぜん杉山すぎやまに入はいった道みち越えつを盗人ぬすびとと見み做し代官だいかん所しょへ連行れんこうしてしまう。これを知しった娘むすめは代官だいかん所しょに何なん度ども父ちちの無実むじつを訴うったえたが、代官だいかん所しょは取とり合あおうとはせず娘むすめを追おい払はらった。そのうち秋あきが来きて冬ふゆになっても道みち越えつが帰かえってくる様子ようすはなく、いつまでも冷つめたい牢ろうに入いれられた父ちちを心配しんぱいした娘むすめは神山こやま(こやま)の観音かんのん様さまへ三さん七なな、二に十じゅう一いち日にちの願ねがいを掛かけようと思おもい立たち、素足すあしで石段いしだんを上のぼっては父ちちが身みの証あかしを立たてられるよう観音かんのん様さまに毎晩まいばんお願ねがいした。そして二に十じゅう一いち日にちの願掛がんかけの最後さいごの日ひ、娘むすめが満願まんがんを祈いのりながら石段いしだんの下したまで来くると観音堂かんのんどうの前まえで大おおきな狼おおかみが娘むすめを見下みおろしていた。しかし狼おおかみよりも今いままでの二に十じゅう日間にちかんが無駄むだになる事ことを恐おそれた娘むすめは、目めを瞑つむり観音かんのん経けいを唱となえながら一段いちだんづつ石段いしだんを上のぼり始はじめた。娘むすめは石段いしだんの数かずを知しり尽つくしていたので最後さいごの一段いちだんを上のぼり終おえた途端とたんに目めを開あけたが、そこに狼おおかみの姿すがたはなく娘むすめは観音堂かんのんどうの前まえに立たっていた。すると向むこうの山やまから狼おおかみの遠吠とおぼえが聞きこえ、娘むすめの手てにはいつの間まにか父ちちに嵌はめられていたであろう枷かせが握にぎられていた。この時とき娘むすめは、あの狼おおかみは観音かんのん様さまの化身けしんで自分じぶんの事ことを試ためしたに違ちがいないと思おもい、娘むすめが信しんじていた通とおりに間まもなく本当ほんとうの杉すぎ盗人ぬすびとが捕つかまり道どう越えつは許ゆるされた。迎むかえに来きた娘むすめと道みち越えつは抱だき合あって再会さいかいを喜よろこび、やがて春はるが来きて道みち越えつも体調たいちょうを取とり戻もどすと二ふ人たりは再ふたたび楽たのしく暮くらせるようになったという。