山やまの風景画ふうけいがは、世よの中なかにいくらでもある。日本画にほんがにしろ洋画ようがにしろ、古今東西ここんとうざいあまたの画家がかたちが、その題材だいざいに「山やま」を選えらんでいる。モチーフとしての山やまの意味いみするものはさまざまだろうが、個人的こじんてきにはそれらに興味きょうみを惹ひかれることはなかった。 なぜか。 一般的いっぱんてきな登山者とざんしゃが山やまを眺ながめたときの感慨かんがいは、おおむね似にかよっている。それは、雄大ゆうだいさ、峻厳しゅんげんさ、あるいは優やさしさといったステレオタイプな観点かんてんから山やまを賛美さんびし、その風景ふうけいを自分じぶんの心こころの展示箱てんじばこに納おさめて「いい思おもい出で」にしてしまう。そして、山岳画さんがくがや山岳写真さんがくしゃしんの作家さっかたちの多おおくもまた、似にたようなイメージを印画紙いんがしやカンバスなどに再現さいげんして、狭せまい市場しじょうの中なかで再生産さいせいさんしている例れいが少すくなくない。 だが、山やまに登のぼる者ものの心こころに刻印こくいんされる山やまの風景ふうけいは本来ほんらい限定的げんていてきなものではなく、確定かくていしえない動的どうてきな現象げんしょうとして記憶きおくされてもよいのではないだろうか。見みる者ものの心こころの中なか定着ていちゃくされる山やまのイメージは、そしてその表現ひょうげんは、もっと多様たようであるべきだろう。 つねに転変てんぺんを繰くり返かえす「海うみ」に対たいして、動うごかざるものの象徴しょうちょうとして、「山やま」が引ひき合あいに出だされることもある。はたしてほんとうに山やまは動うごかないのか。 (中略ちゅうりゃく) 一いち登山者とざんしゃとしてこう思おもう。山やまは動うごいている、と。それは、地殻変動ちかくへんどうや火山かざんの噴火ふんかなど大規模だいきぼなものだけではない。遠目とおめには同おなじように見みえても、風かぜに吹ふかれて砂塵さじんは舞まい、山腹さんぷくを覆おおう植物しょくぶつたちは陽光ようこうを浴あびて茂しげり、渓流けいりゅうはその谷たにの深ふかさを日々ひび深ふかく削けずり、刻一刻こくいっこくと変化へんかし続つづけている。そういった微細びさいな物理的ぶつりてき変貌へんぼう、小ちいさい生命せいめいたちの死滅しめつと再生さいせいが瞬時しゅんじも止とまることのない現場げんばが、「山やま」なのである。 都市風景としふうけいは近代きんだい以降多様たような都市論としろんの対象たいしょうとなってきたが、本来ほんらい、多様性たようせいに富とんでいるはずの山やまという場所ばしょを表現ひょうげんするイメージが、なぜこれほどまでに単一的たんいつてきなのか。 それは、山やまというつねに転変てんぺんする自然しぜんから、都市部としぶの生活者せいかつしゃの生活せいかつが乖離かいりしてしまったことに、原因げんいんを求もとめることができるかもしれない。山やまの変化へんかに気きづくほど山やまを観測かんそくしていないから、その変化へんかにも気きづかない。 何十年なんじゅうねんも山やまで暮くらしてきたような画家がかでさえも、その表現ひょうげんは先述せんじゅつした域いきを出でることは稀まれだ。思おもうに、そういった者ものは都市生活者としせいかつしゃとは反対はんたいに、表現ひょうげんへの憧あこがれが先さきに立たち、山やまの実相じっそうを表現ひょうげんしえていないのかもしれない。 (志水しみず哲也てつや編へん『山やまと私わたしの対話たいわ』による)
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